宮津高等学校(府立四中・府立宮津中学校)野球部の歩み |
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■歴代監督 |
昭和16年以前は、部長先生はおられましたが、全国中等野球優勝大会京滋予選(現全国高校野球選手権京都府大会)の一週間前に京都大学や立命館大学の野球部の方がコーチに来られ、本大会に出場したようです。 |
1948年(昭和23年)以降 |
伊達 | 一男 | 先生 |
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小松 | 忠衛 | 先生 |
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岩瀬 | 宗司 | 氏 |
| 1950年(昭和25年) |
足立 | 武 | 氏 |
| 宮高OB昭和25年卒→立命館大学在学中に監督をされる。 |
山添 | 千吉郎 | 先生 |
| 1953年(昭和28年) 〜1971年(昭和46年)9月 |
大森 | 治 | 先生 |
| 1971年(昭和46年)9月〜1974年(昭和49年)3月 |
藤本 | 長寿 | 先生 |
| 1974年(昭和49年)4月〜1989年(平成 元年)3月 |
荒木 | 伸 | 先生 |
| 1989年(平成 元年)4月〜1989年(平成 元年)7月 |
市田 | 匡史 | 先生 |
| 1989年(平成 元年)8月〜1996年(平成 8年)3月 |
谷口 | 邦夫 | 先生 |
| 1996年(平成 8年)4月〜1996年(平成 8年)9月 |
市田 | 匡史 | 先生 |
| 1996年(平成 8年)10月〜2000年(平成12年)3月 |
下谷 | 勇 | 先生 |
| 2000年(平成12年)4月〜2003年(平成15年)3月 |
荒木 | 伸 | 先生 |
| 2003年(平成15年)4月〜2010年(平成22年)3月 |
多々納 | 智 | 先生 |
| 2010年(平成22年)4月〜 |
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■歴代OB会会長 |
初代 家 城 徳 男(昭和29年卒) |
二代 山 下 慎 二(昭和32年卒) |
三代 狩 野 正 敏(昭和34年卒) |
四代 小 倉 英 一(昭和36年卒) |
五代 大 槻 鶴 彦(昭和38年卒) 平成19年度〜 |
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■野球部の主なOB |
昭和33年卒業 中島博征 (南海〔現ソフトバンク〕ホークスで活躍される) |
平成12年卒業 糸井嘉男 (近畿大学→日本ハムファイターズ→オリックスバッファローズ) |
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■宮津高等学校(府立四中・府立宮津中学校)野球部の歴史 |
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明治時代 |
府立四中時代、1903年(明治36年)に野球部が誕生しました。 そのころはプロ野球は勿論の事、高校野球の全国大会、地方大会もなかった頃であり、校内試合や府立三中(現福知山高校)との定期戦がもたれたのが最高でありました。 そのころの府立三中との定期戦は、土曜日の午後大江山の普甲峠を越え片道32qの山道をわらじを履いて福知山まで行き、府立三中の寄宿舎に宿泊し、翌日日曜日に試合をして、また片道32qの山道をわらじを履いて、夜遅く宮津まで帰って来るという厳しい時代でありました。 また校内試合では、グローブが少なく選手は袴をはいて、その袴を両手で広げボールを止めるという現在の野球とはかなり違っていたようです。 |
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大正時代 |
府立宮津中学校(現宮津高校)がはじめて全国中等野球優勝大会京滋予選(現全国高校野球選手権京都府大会)に出場したのは、第5回の1919年(大正8年)です。 この大会に先だって、三丹野球大会がもたれた。当時、府立中学校(現府立高校)は京都市内に一中(洛北高校)・二中(鳥羽高校)郡部に三中(福知山)・四中(宮津)の四校しかありませんでした。 三丹野球大会は、三中・四中・舞鶴工廠チームのリーグ戦で行われました。 四中(現宮津高校)は5月26日、宮津港より第二橋立丸で舞鶴港まで行き、5月27日、三丹野球大会に挑み、2勝し優勝しました。 |
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☆当時の旧制宮津中学校の学友会誌を紹介しましょう。 |
午後8時より一同先輩等に別れ、徒歩を以て帰津せんとて優勝旗を先頭に出発す。午後9時西舞鶴着、同地の我校3年生原田隆夫君の厳父種造氏より、選手応援団にサイダー、湯茶の接待に預かる、感謝の外なし。 これにて元気を得て、大川橋を経て由良に至る。由良よりは一日中の激動の為、漸く疲労を覚ゆ、三々五々おぼろ月夜の道を急ぐ。午前4時頃、栗田村に着く。崔部校長先生を始め、塾生(寄宿舎生)一年級の出迎えをうけ宮津に入れば諸先生が又我等の戦勝を迎へられる。朝の鳥の声も凱旋を祝うが如く、優勝旗は杉山より朝風になびいていた。 次に今回の優勝を祝して、祝文、祝電を究せられたる諸先輩、諸兄及び、金品を究附されし、三井、稲葉、椋棒の諸商店、京都銀行の好意を深謝す。 |
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■1919年(大正8年) 初出場 第5回全国中等野球優勝大会京滋予選 三高(現京大)グランド |
府立宮津中学校(現宮津高校)は、京都大学を本年度卒業された中本 実氏、三高(現京都大学)の花形 内藤源次郎氏の両コーチを招き一週間の猛練習を行い、第5回大会に参加することになった。 |
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1回戦 |
比叡山 0 対 11× 宮 津 |
森−大下倉 |
2回戦(準々決勝) |
宮 津 2 対 10× 同志社 |
森−大下倉 |
第5回全国中等野球優勝大会京滋予選 優勝 同志社中学 |
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■1924年(大正13年) 甲子園球場完成 |
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昭和時代 |
昭和初期、1929年(昭和4年)までは、全国中等野球優勝大会京滋予選に参加したが、1回戦2回戦で敗れていました。 |
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■1930年(昭和5年) 第16回全国中等野球優勝大会京滋予選 (緑ヶ丘球場) |
1回戦 不戦勝 | |
2回戦 |
伏見商業 2 対 12× 宮 津 |
中西−大西 |
3回戦 |
京都一工 2 対 4× 宮 津 |
西田−大西 |
4回戦(準々決勝) |
八幡商業 3 対 2 宮 津 |
西田−大西 |
第16回全国中等野球優勝大会京滋予選 優勝 平安中学 |
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■1932年(昭和7年) 西京極球場完成 |
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■1935年(昭和10年) ベーブ・ルース引退 生涯本塁打714本 |
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■1948年(昭和23年) 学制改革に伴い、京都府立宮津中学校、京都府立宮津実業高校(前身宮津商業、宮津工業)、京都府立宮津高等女学校の三校が合併し、京都府立宮津高等学校となる。 |
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■1948年(昭和23年) 第二次大戦中、一次中断していた野球部も復活し、戦時中畑と化していたグランドも整備される |
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■1948年(昭和23年) 宮津高校野球部後援会結成 |
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■1949年(昭和24年) 湯川秀樹 日本人として初めのノーベル賞受賞(ノーベル物理学賞) |
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■全国高校野球選手権京都府大会 初めての準決勝へ |
1950年(昭和25年)のチームは、部長 伊達一男先生(昭和6年卒OB 最終宮津中学校長で退職)監督は、1935年(昭和10年)長野県飯田商業時代甲子園への出場経験のある岩瀬宗司氏の指導で、練習に励みベスト4へ残った。 |
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■1950年(昭和25年) 第32回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | |
2回戦 |
園 部 1 対 3× 宮 津 |
城崎−坂根下 |
3回戦 |
峰 山 2 対 7× 宮 津 |
城崎−坂根下 |
準々決勝 |
宮 津 3 対 2× 福知山 |
城崎−坂根下 |
準決勝 |
宮 津 1 対 3× 伏 見 |
城崎−坂根下 |
第32回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 山城高校 |
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■山添千吉郎部長兼監督 強豪宮津への一歩 |
1954年(昭和29年)秋の近畿大会京都府2次予選では、立命館高校(1955年夏、甲子園の準決勝まで進出)を4対3、京都商業を2対1と下し、決勝リーグまで進出したが、平安高校に敗れる。 このチームは、福井県若狭高校(1955年春の選抜大会出場、夏の選手権大会準優勝)と3回の交歓試合を行い1勝2敗(4対3、6対5、5対4)で両者実力は拮抗し全国レベルであった。 |
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■1955年(昭和30年) 第37回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | |
2回戦 |
宮津高校 1 対 0 紫野高校 |
小池−浜崎 |
3回戦 |
鴨沂高校 6 対 7× 宮津高校 |
小池−浜崎 |
準々決勝 |
東山高校 2 対 1 宮津高校 |
小池−連山 |
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(新聞評 抜粋)郡部勢の期待を集める宮津は、連日の猛暑続きで選手が冷水を飲み過ぎたのか病気続出、この日はまさに背水の陣をしいたが、それにしても選手の故障で、守備位置を急にあれこれ変えて試合に臨ばねばならなかった宮津はポジションの不慣れからしばしば失策を重ね自らピンチを招いたのは気の毒だった。 |
第37回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 立命館高校(全国大会ベスト4) |
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■1956年(昭和31年) 京都府秋季航行野球大会 優 勝 選抜大会選外優秀校となる |
秋の近畿大会京都府1次予選 |
1位 宮津高校 2位 西舞鶴高校 |
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秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
同志社高校 7 対 0 宮津高校 |
高居−谷口 |
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敗者復活戦 |
1回戦 |
平安高校 0 対 1 宮津高校 |
高居−谷口 |
2回戦 |
伏 見 3 対 5× 宮津高校 |
高居−谷口 |
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決勝リーグ |
準決勝 |
宮津高校 3 対 2 紫野高校 |
高居−谷口 |
決 勝 |
山城高校 3 対 4× 宮津高校 |
高居−谷口 |
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打 順 |
守備位置 |
名 前 |
学 年 |
1 |
6 |
坂根 徹 |
2 |
2 |
3 |
狩野 正敏 |
1 |
3 |
3 |
森永 芳樹 |
2 |
4 |
7 |
中島 博征 |
2 |
5 |
4 |
宮下 忍 |
2 |
6 |
1 |
高居 陸三 |
2 |
7 |
9 |
三田 正高 |
2 |
|
9 |
池田 寛 |
2 |
8 |
8 |
大塚 昇 |
2 |
9 |
2 |
谷口 克己 |
2 |
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近畿秋季高校野球大会 |
1回戦 |
明 石 5 対 1 宮津高校 |
高居−谷口 |
山城高校は準決勝まで進出し翌年春 センバツ大会へ出場 |
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■1957年(昭和32年) 京都府郡市対抗試合 |
第39回全国高校野球選手権京都府大会の前哨戦、郡市対抗試合は6月中旬宮津高校グランドで開催され、3000人の観客が見守る中、再び山城高校と対戦した。
宮津高校 4 対 0 山城高校 高居−谷口 |
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■1958年(昭和33年) 東京六大学野球のスーパースター長島茂雄 読売ジャイアンツへ入団 |
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■1960年(昭和35年) 近畿春季高校野球大会 準優勝 |
この年の春季近畿大会は西京極球場で行われ、京都府代表として、平安高校、山城高校、宮津高校の3校が出場した。 |
1回戦 |
宮津高校 3 対 1 近江高校 |
奥田−石野 |
準決勝 |
山城高校 0 対 1× 宮津高校 |
奥田−石野 |
決 勝 |
宮津高校 0 対 7× 県立尼崎 |
奥田−石野 |
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■1960年(昭和35年) 第42回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
宮津高校 8 対 0 木津高校 |
奥田−石野 |
3回戦 |
宮津高校 2 対 0 京都商業 |
奥田−石野 |
準々決勝 |
宮津高校 1 対 0 洛陽工業 |
奥田−石野 |
準決勝 |
同志社 3 対 0 宮津高校 |
奥田−石野 |
第42回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
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打 順 |
守備位置 |
名 前 |
学 年 |
1 |
8 |
梅田 英雄 |
3 |
2 |
4 |
青木 宜樹 |
3 |
3 |
6 |
小倉 英一 |
3 |
4 |
1 |
奥田順次郎 |
3 |
5 |
2 |
石野 宜夫 |
3 |
6 |
3 |
矢野 誠 |
2 |
7 |
7 |
細井 郁夫 |
3 |
8 |
9 |
塩見 功 |
2 |
|
9 |
飯尾 和弘 |
2 |
9 |
5 |
大西 潔 |
2 |
|
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■1961年(昭和36年) 第43回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
宮津高校 2 対 1 福知山高校 |
大槻−矢野 |
3回戦 |
宮津高校 4 対 1 東舞鶴高校 |
大槻−矢野 |
準々決勝 |
伏見工業 1 対 2× 宮津高校 |
大槻−矢野 |
準決勝 |
宮津高校 2 対 1 花園高校 |
大槻−矢野 |
決 勝 |
山城高校 3 対 1 宮津高校 |
大槻−矢野 |
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宮津の主柱であった大槻投手は、2年生とも思えぬ冷静な態度で、どんな危機にも球の配給を充分に考え、無類の制球力を失わなかった。これといった球威もないのに打ち崩されなかったのは、練習によって得た低目のコントロールと頭脳によるものである。バックスも大槻をよく助けた。 このチームにヒーローはいない。数少ない好機を確実にモノにする闘志とチームプレーだけがあった。清新なチームカラーで予選大会に新風を送り込んだ宮津チームの活躍は、大会の花でもあった。 (朝日新聞より抜粋) |
守備位置 |
打 順 |
名 前 |
学 年 |
1 |
8・9 |
大槻 鶴彦 |
2 |
2 |
5 |
矢野 誠 |
3 |
3 |
7 |
飯尾 和弘 |
3 |
4 |
9・8 |
山添 里司 |
2 |
5 |
3 |
大西 潔 |
3 |
6 |
2 |
坂中 公文 |
2 |
7 |
1 |
宮田 勝人 |
2 |
7 |
6 |
杉山 征夫 |
3 |
8 |
4 |
塩見 功 |
3 |
9 |
6・2 |
粟森 利幸 |
3 |
9 |
6 |
山下 直彦 |
2 |
9 |
9 |
岡本 賢二郎 |
2 |
|
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■1961年(昭和36年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
宮津高校 3 対 3 京都商業 延長11回日没引分 |
大槻−松原 |
1回戦再試合 |
京都商業 0 対 3× 宮津高校 |
大槻−松原 |
準決勝 |
同志社 0 対 1× 宮津高校 |
大槻−松原 |
決 勝 |
宮津高校 2 対 3× 平安高校 延長12回 |
大槻−松原 |
|
近畿秋季高校野球大会 |
1回戦 |
高田商業 4 対 0 宮津高校 |
大槻−松原 |
|
守備位置 |
打 順 |
名 前 |
学 年 |
1 |
3 |
大槻 鶴彦 |
2 |
2 |
8 |
松原 譲 |
1 |
3 |
6・5 |
大滝 仁志 |
1 |
4 |
4 |
山添 里司 |
2 |
5 |
9・2 |
秋田 貞夫 |
2 |
6 |
1 |
坂中 公文 |
2 |
7 |
5 |
山下 敏郎 |
2 |
7 |
5・9 |
宮田 勝人 |
2 |
8 |
2・6 |
山下 直彦 |
2 |
9 |
7 |
岡本賢二郎 |
2 |
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1961年(昭和36年)冬、京都府では全京都選抜チームが沖縄(当時アメリカ領)へ遠征した。 宮津高校からも、大槻選手と坂中遊撃手が選ばれる。 |
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■1962年(昭和37年) 京都府郡市対抗試合 |
第44回全国高校野球選手権京都府大会の前哨戦の郡市対抗試合は、6月中旬宮津高校グランドで行われ再び平安高校と対戦し、打線の奮起と大槻投手の好投で5対0で勝ち、甲子園出場の期待がよりいっそう大きくなる。 |
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■1962年(昭和37年) 第44回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
綾部高校 1 対 3× 宮津高校 |
大槻−岡田 |
3回戦 |
山城高校 0 対 5× 宮津高校 |
大槻−岡田 |
準々決勝 |
宮津高校 1 対 2× 峰山高校 延長15回 |
大槻−岡田 |
第44回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
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■1964年(昭和39年) 第46回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
宮津高校 5 対 4 桂 高校 延長12回 |
|
3回戦 |
宮津高校 1 対 0 嵯峨野高校 | |
準々決勝 |
朱雀高校 7 対 4 宮津高校 | |
第46回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
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■1964年(昭和39年)10月10日 東京オリンピック開催 |
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■1966年(昭和41年) 宮津高校野球部指導方針決まる。 |
宮津高校野球部は次の指導方針を下に、創意工夫をこらし部員を指導育成することになる。 (1)生徒の本分を守り、全校の模範生たることを期する。 (2)学業第1、野球第2とし勉学の余暇の短時間にベストを尽くして練習に励み、断じて学業とスポーツの両立を目指し将来立派な社会人たる素地を作る。
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■1966年(昭和41年) 第48回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
宮津高校 4 対 0 日吉高校 |
石井−庄司 |
3回戦 |
宮津高校 11 対 0 山城高校 |
石井−庄司 中島節史本塁打 |
準々決勝 |
宮津高校 1 対 2× 平安高校 延長10回 |
石井−庄司 |
第48回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
|
- 準々決勝は現在でも語り継がれる好試合であった。
今大会3回戦で共にノーヒットノーランを達成した宮津石井と平安門野が持ち味を生かしての投げ合いとなった。
-
宮津高校 |
0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
0 | 0 | 1 | 0 | 0 |
| 1 |
平安高校 |
0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
0 | 0 | 0 | 1 | 1 |
| 2× |
-
- 朝日新聞座談会記事より抜粋
- "大会全体を振り返って印象に残ることは・・・・
- 一同「何と言っても宮津の健闘だ。平安を窮地に追い込んだ闘志は素晴らしかった。」
獺口同大監督「強敵を意識せず、自分のペースを守り抜いた。石井投手も逃げのピッチングをせず、小気味よく投げ込んだあたりは大したものだ。」 川村元関大監督「9回裏、不運が重なって追いつかれたが勝てた試合だった。」・・・・
-
- 朝日新聞 "熱戦を顧みて≠謔阡イ粋
- 印象に残る好試合は
- A氏、宮津対平安戦がなんと言っても素晴らしかった。平安高校は春の近畿大会で優勝してから、府内のチームには絶対に負けない自信を持っていたが、このときばかりは宮津に圧倒された。
- B氏、石井投手は、球を低目に押さえ、内外角に散らすと思えば、思い切って真ん中に投げ込む。コントロールと度胸の良さは大会随一だった。
- C氏、石井が思いきって投げられたのは、バックスの守備も良かったからだ。
- A氏、宮津のファインプレーを見るたびに、選手たちの気力の充実ぶりがこちらにも痛い程よく伝わってきた。平安も同じことだ。
- C氏、この試合が大会最高の好試合になったのは、結局両チームの気力があふれていたからだ。
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■1966年(昭和41年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
桂 高校 5 対 7× 宮津高校 |
日引−庄司 |
2回戦 |
宮津高校 6 対 1 峰山高校 |
日引−庄司 |
準決勝 |
花園高校 3 対 7× 宮津高校 |
日引−庄司 |
決 勝 |
平安高校 15 対 1 宮津高校 |
日引・羽渕・日引−庄司 |
|
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近畿秋季高校野球大会 |
1回戦 |
市和歌山商 2 対 1 宮津高校 |
日引−庄司 |
市和歌山商は選抜大会に出場しベスト8に進出する。 |
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■1967年(昭和42年) 第49回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
石原高校 1 対 3× 宮津高校 |
日引−庄司 |
3回戦 |
園部高校 3 対 8× 宮津高校 |
日引−庄司 |
準々決勝 |
宮津高校 15 対 1 嵯峨野高校 |
日引−庄司 |
準決勝 |
桂 高校 0 対 6× 宮津高校 |
日引−庄司 |
決 勝 |
平安高校 8 対 0 宮津高校 |
日引・小野・日引−庄司 |
|
|
守備位置 |
打 順 |
名 前 |
学 年 |
1・8 |
4 |
日 引 |
3 |
2 |
1 |
庄 司 |
3 |
3 |
5 |
糸 井 |
3 |
4 |
8 |
西 山 |
3 |
5 |
2 |
竹 内 |
2 |
6 |
3 |
羽 渕 |
3 |
7 |
9 |
大 西 |
2 |
7 |
HP9 |
久 保 |
3 |
8・1 |
7 |
小 野 |
3 |
9 |
3 |
永 島 |
3 |
|
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京都新聞「音球」より "全力を出しつくす |
|
宮津ナインはだれも泣かなかった。試合が終わって応援団の前では頭をたれていたが、胸を張って場内を一周すると平安ナインに拍手を送っていた。 「勝とうという意識は全然ありませんでした。投手日引がくずれたのは、スタンドを埋め尽くした観客のため、雰囲気に引きこまれたからです。」と山添監督。 「良いチームですね。昨春のセンバツでうちが負けた土佐高校によく似ています。まじめでキビキビしていて、本当に高校生らしいチームでした。」中村平安監督もほめる。 「とにかく基本に忠実なプレーをしろと練習の時からいっています。江島君のような超高校級の選手は滅多にいるものではありません。からだの大きいもの、小さいもの、足の速い選手、遅い選手いろいろいます。これを一つまとめるわけですが、自分のもっている能力を全部はき出すようにすれば自然と勝てます。みんなが最高の力をだしたと思います。」と山添監督は負けたことなんか問題外といった表情。 コーチとしてベンチにはいっていた先輩の、大槻鶴彦君(東京教育大 現筑波大)は昭和36年に決勝へ出てきて山城高校に敗れ、甲子園行きの夢をつぶされている。「あのときもそうでしたがくやしいとは思いませんでした。うちのチームの伝統は(常に全力を)ということですが、ことしも後輩達はそれをりっぱに守ってくれました。言うことはありません」ありたけの力を出し尽くしたナインを「よくやった」と晴ればれとした顔で迎えていた。りっぱな宮津の戦いぶりだった。 |
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■1967年(昭和42年) 近畿秋季大会高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
乙訓高校 0 対 8× 宮津高校 |
中辻−赤松正 |
準々決勝 |
大谷高校 5 対 2 宮津高校 |
中辻−赤松正 |
|
|
■1968年(昭和43年) 第50回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
同志社 0 対 2× 宮津高校 |
和田−赤松正 |
3回戦 |
花園高校 0 対 4× 宮津高校 |
和田−赤松正 |
準々決勝 |
東山高校 8 対 3 宮津高校 |
和田−赤松正 |
第50回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
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|
■1968年(昭和43年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
乙訓高校 1 対 8× 宮津高校 |
林−赤松正 |
準々決勝 |
西京商業 3 対 2 宮津高校 |
林・和田−赤松 |
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■1969年(昭和44年) 近畿春季高校野球大会 |
春の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
桂 高校 0 対 1× 宮津高校 |
中辻−赤松正 |
準決勝 |
宮津高校 8 対 3 同志社 |
中辻−赤松正 |
決 勝 |
宮津高校 0 対 8× 平安高校 |
中辻・猪瀬−赤松正 |
|
守備位置 |
打 順 |
名 前 |
学 年 |
1・8 |
4 |
中 辻 |
3 |
2 |
8 |
赤 松 正 |
3 |
3・1 |
5 |
和 田 |
3 |
3 |
6 |
杉 本 |
3 |
4 |
9 |
市 田 |
3 |
5 |
9 |
前 野 |
3 |
5 |
6 |
坂 野 |
3 |
6 |
1 |
赤 松 重 |
3 |
7 |
2 |
荒 砂 |
3 |
7・3 |
7 |
植 松 |
3 |
8・1 |
7 |
林 |
3 |
9 |
3 |
売 間 |
3 |
|
PH |
上 田 |
3 |
1 |
|
猪 瀬 |
2 |
|
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■1969年(昭和44年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
準々決勝 宮津高校 6 対 7× 東山高校 西原・猪瀬・西原−藤原 |
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■1970年(昭和45年) 近畿春季高校野球大会 |
春の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
宮津高校 4 対 1 京都商業 |
速石−藤原 |
準決勝 |
宮津高校 8 対 9× 大谷高校 |
速石−藤原 |
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■1970年(昭和45年) 第52回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 不戦勝 | | |
2回戦 |
鴨沂高校 4 対 7× 宮津高校 |
西原−藤原 |
3回戦 |
宮津高校 6 対 0 山城高校 |
西原−藤原 |
準々決勝 |
堀川高校 3 対 2 宮津高校 |
西原−藤原 |
第52回全国高校野球選手権京都府大会 優勝 平安高校 |
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■1970年(昭和45年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
洛星高校 1 対 3× 宮津高校 |
速石−安田 |
準々決勝 |
平安高校 2 対 1 宮津高校 |
速石−安田 |
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■1971年(昭和46年) 第53回全国高校野球選手権京都府大会 |
1回戦 |
宮津高校 |
4 対 1 |
立命館高校 |
速石−安田 |
2回戦 |
宮津高校 |
9 対 1 |
福知山高校 |
速石−安田 |
3回戦 |
宮津高校 |
5 対 1 |
洛陽工業 |
速石−安田 |
準々決勝 |
宮津高校 |
2 対 0 |
福知山商業 |
速石−安田 |
準決勝 |
宮津高校 |
3 対 1 |
久美浜高校 |
速石−安田 |
決 勝 |
宮津高校 |
8 対 6 |
花園高校 |
速石−安田 |
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宮津高校 初優勝 8月1日 |
宮津高校 |
0 | 3 |
0 | 0 |
2 | 0 |
1 | 1 |
1 | |
8 |
花園高校 |
0 | 0 |
3 | 1 |
0 | 1 |
1 | 0 |
0 | |
6 |
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打順 | 守備位置 |
名前 | 打数 |
得点 | 安打 |
打点 | 三振 |
四死球 | 犠打 |
1 | 5 |
中島 | 3 |
1 | 1 |
1 | 1 |
3 | 0 |
2 | 8 |
三原 | 2 |
0 | 0 |
0 | 1 |
3 | 1 |
3 | 4 |
梅本 | 3 |
0 | 1 |
3 | 0 |
2 | 1 |
4 | 9 |
石塚 | 6 |
0 | 1 |
0 | 2 |
0 | 0 |
5 | 1 |
速石 | 4 |
2 | 1 |
0 | 1 |
2 | 0 |
6 | 3 |
溝口 | 3 |
2 | 1 |
0 | 0 |
2 | 0 |
7 | 7 |
冨田 | 1 |
2 | 0 |
0 | 0 |
2 | 2 |
8 | 2 |
安田 | 2 |
1 | 0 |
1 | 1 |
1 | 2 |
9 | 6 |
笹岡 | 5 |
0 | 2 |
1 | 1 |
0 | 0 |
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(朝日新聞より抜粋)
追いつ追われつ決勝戦にふさわしく、両チーム死力をふりしぼっての接戦に、満員のスタンドをわかせたが、総合力でわずかにまさる宮津がかろうじて逃げ切った。 6対6の同点で迎えた8回、宮津は速石が投手前バンド内野安打、溝口四球のあと冨田の犠打で一死二、三塁とし、スクイズを見破られて速石が三本間にはさまれたが捕手が三塁に悪投、幸運な勝越し点をあげた。9回には中島が三塁左を抜く痛烈な二塁打、三原の送りバンドで送った後、梅本の左犠飛でダメを押した。 |
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初勝利にわく宮津市内(新聞より抜粋)
宮津市はこの日、宮津高校の初優勝、初甲子園への期待にわいた。試合が始まると、茶の間のテレビにかじりついて声援を送る家庭が目立ち、町かどは、真昼間というのにほとんど人影もなく、ひっそり。「ミヤコウ、ワッショイ」の応援の声が、もれていた。 宮津高校では、留守居の岡田副校長や日直の先生らが文字通り手に汗を握ってテレビを観戦。晴れの賞状と優勝旗が手渡された瞬間、思わず割れるような拍手が起こった。 今度は京滋大会。お祝いどころか、先生たちは、お祝いと応援バスの問い合わせの電話のベルが、いそがしく鳴り続けた。 |
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宮津高校 優勝メンバー |
守備位置 |
名 前 |
学 年 |
守備位置 |
名 前 |
学 年 |
9 |
石 塚 仁 | 3主 |
8 |
小 巻 秀 一 | 2 |
4 |
梅 本 俊 吾 | 3 |
7・9 |
木 崎 利 保 | 2 |
5 |
中 島 均 | 3 |
6 |
笹 岡 嘉 之 | 2 |
1 |
速 石 直 美 | 3 |
7 |
冨 田 尚 之 | 2 |
8 |
三 原 一 幸 | 3 |
3 |
溝 口 克 明 | 2 |
7 |
安田(村尾) 満 | 3 |
2 |
安 田 浩 一 | 2 |
5 |
畦 地 忠 司 | 2 |
1 |
山田(木村) 洋 | 1 |
4 |
小 奥 伊 善 | 2 |
9 |
高 松 正 司 | 1 |
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大会を顧みて(朝日新聞より抜粋) |
◇宮津、抜群の力◇ |
宮津は前評判通りだった。スター選手はいないが、攻守にまとまり、冷静で基本に忠実だった。無死で走者が出るとバントで確実に得点圏に進塁させた。すかさず適時打で加点した。とくに意表をつくスリーバントスクイズを成功させるなど、バントが実にうまかった。 「野球条件に恵まれぬ奥丹で、よくここまで実力をつけた。他の公立校の大きな励みになる」と関係者は口をそろえる。 |
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◇体力と気力◇ |
雨にたたれどうしのことしの夏の高校野球府予選は、二回戦から二会場に分散して行うことになり、連戦と猛暑のため、体力を消耗する選手が多かった。 宮津が比叡山に敗れたのも、四連戦の疲れが原因とみるファンも多いが、トーナメント戦の夏の大会は、勝ち進むほど連戦になる。栄冠をにぎるにはたくましい体力と気力と、ここにも教訓があった。 |
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■1971年(昭和46年)8月2日 第53回全国高校野球選手権 京滋大会 |
(朝日新聞より抜粋) |
気力の宮津、余裕の比叡山 |
初めて京滋決勝に出る宮津、三年連続の比叡山。このキャリアの差がどう影響するか。精神的には、比叡山に余裕があり、予選決勝から一日の休養をとったプラスもある。 これにくらべると宮津は四連戦のハードスケジュール。このハンディをのりきるには気力しかない。 |
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(朝日新聞より抜粋) |
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先制の絶好機を逸す 宮津ねばりもむなしく
「なんとかして塁に出よ」・・・ 山添監督の指示は、一回に実った。
中島が四球を奪った。比叡山・沢田投手の速球は、コーナーを外れ苦しい。甲子園をかけた大事な戦いのスタート。きっと、堅くなったのだろう。チャンスだ。続く三原がバンド。沢田がとった。二塁へ、だが間に合わない。セーフだ。無死一、二塁。梅本も投前に送りバント。
一死二、三塁。「いけ、いけっ」「わっしょい、わっしょい」応援団は総立ち。
石塚がファウルでねばる。ベンチで山添監督が立った。微妙な動きだ。スクイズか。すかさず沢田が三塁に牽制球。石塚はとうとう四球。一死満塁。「いただきや」とスタンドが叫んだ。
つぎは速石2−2、さあ打てっが、沢田の大きく落ちるカーブ。溝口もまた2−1からこの カーブに連続三振。絶好のチャンスは消えた。「あかん」山添監督が、天を仰いだ。 |
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速石−安田 |
宮津高校 |
0 | 0 |
0 | 0 |
0 | 0 |
0 | 0 |
0 | | 0 |
比叡山高校 |
0 | 1 |
0 | 0 |
0 | 1 |
0 | 0 |
0 | | 2 |
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読者のひろば(新聞より抜粋) |
白球にかける高校生のきびきびした動きがたまらなくて、今年もテレビのチャンネルをひねりました。条件の悪い府北部の公立高校が野球学校、比叡山をまかす小気味よい場面を夢見たのですが・・・。残念でした。四連戦の疲れも見せず全力を出しきった宮津選手に「よくやった」と思わず叫んでしまいました。 |
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一度は甲子園の土を・・・(新聞より抜粋) |
高校野球関係者 山添さんを惜しむ
「夏の府大会で優勝したら、死んでもいい」。これが口ぐせだった宮津高校野球部監督の山添千吉郎さんが、優勝から1ヶ月余りの9月3日、急死した。 栄光に挑み続けた18年、意識不明のなかでもその手は、サインを送っていたという。 山添先生は優勝の後1日休んだだけで、9月2日も午後からグラウンドに立って選手達と一緒に白球を追っていた。 秋季リーグが始まり、新メンバーでセンバツをめざして猛練習を続けており、先日も北陸の名門若狭高校と交歓試合をして勝ったのをはじめ、順調な試合ぶりをみせていた。 |
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■1974年(昭和49年)4月 闘将藤本長寿先生 宮高野球部監督に |
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■1974年(昭和49年) 近畿秋季高校野球大会 |
秋の近畿大会京都府2次予選 |
1回戦 |
西京商高校 |
2 対 3× |
宮津高校 |
中村−井ノ口 |
準々決勝 |
福知山高校 |
0 対 3 |
宮津高校 |
中村−井ノ口 |
準決勝 |
同志社高校 |
0 対 8 |
宮津高校 |
中村−井ノ口 |
決 勝 |
東山高校 |
4 対 3 |
宮津高校 |
中村−井ノ口 |
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近畿秋季高校野球大会 |
1回戦 |
郡山高校 |
8 対 6 |
宮津高校 |
中村・伊藤−井ノ口 |
宮津高校選外優秀校となる。 |
東山高校は準々決勝まで進出し翌年春 センバツ大会へ出場 |
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以降調査中・・・ |